【前編】【徒然日記】内田篤人選手引退に思いを寄せて

こんばんは。

 

先日、鹿島アントラーズ内田篤人選手が現役引退をされました。
一時代の終焉を感じずには居られないです。

普段はスポーツネタについては書かないのですが、

 

好きな選手だし、同世代として今日は好き勝手に語らせてください。
(、、、たぶん長くなります)

 

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ありし日の思い出




いまはそれほどでもありませんが
若い時は、僕は"鹿島サポーター"でした。
テレビ、スポーツバー、時にスタジアムでよく応援していました。

 



なぜ、地元も違うこのチームを応援していたかというと理由は2つあります。

第一に、小笠原選手をはじめとする79年世代が僕にとってのスターなので所属する鹿島アントラーズに目が行きます。

第二に、クラブのアイデンティティというんでしょうか。
"常勝軍団"という勝利主義というのが好きでした。
内容云々より勝利にこだわる姿勢というのは、
美しさを追求(人気)しがちなこのスポーツにおいては孤高の存在でした。
その強さがこのチームに脈々と継がれるDNAであり、その結果がJクラブ最多のタイトル数だと思います。

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カシマスタジアム


 

90年代はジーコ、レオナルド、ジョルジーニョビスマルクをはじめとした大物助っ人選手とともに

本田、秋田、相馬、名良橋、柳沢選手らとともにタイトルを獲得していきました。
98年に、後に黄金世代といわれる79年組が入団します。
(小笠原、本山、中田浩二、曽ヶ端、山口、中村ら6人が新人として入団)

当時は高校サッカーも全盛時代で決勝を戦った両チームの中心選手(本山と中田)が同チームに入団するなんて
すごくホットな出来事でした。

 

その後、黄金世代の台頭し、にジュビロ磐田とタイトルを独占しあう"2強時代"に突入します。
列島を熱狂の渦に巻き込んだ日韓W杯が終了した02年以降。
鹿島アントラーズ常勝の歩みは一時ストップします。
03-07年の無冠時代です。
タイトル争に絡めない、もしくは決勝で辛酸を舐めるなど"らしくない"シーズンを重ねている時期でした。

 

そんな折、内田選手が鹿島アントラーズの門戸を開きました。
サポーター、サッカー界と内田篤手は衝撃的な出会いを果たします。
それは2006年シーズン開幕戦になります。

 

ブラジルのビッククラブであるサンパウロFCを率いて世界一のタイトルを獲得した
パウロ・アウトォウオリ新監督を向かえ新たな船出を迎える。
柳沢選手の鹿島復帰など、いつも以上に期待を胸に秘めるシーズンの幕開けでした。

対する対戦相手はサンフレッチェ広島
広島開催のアウェイゲームでした。
上京前の高校生だった僕は、ユニフォームを着てテレビ観戦していました。(7番:新井場選手)

 

そして、いよいよ開幕スタメン発表。

GK:小澤英明
DF:新井場徹大岩剛岩政大樹内田篤人
MF:増田誓志青木剛小笠原満男本山雅志
FW:深井正樹柳沢敦

 

なんと、なんと伝統的なチーム鹿島アントラーズの開幕スタメンに名を連ねるとは。
(当時、鹿島アントラーズでの最年少スタメン。史上初の出来事でした)

 

同ポジションの名良橋、内田潤選手の負傷もありましたが、
当時、卒業式前の現役高校生ですよ。
これは同世代としても衝撃的でした。

 

全国高校選手権に出場したわけでもないので、
内田選手のプレイをみるのはその日が初めてでした。

 

内田選手の1つのPK奪取、柳沢選手のハットトリックもあり試合は4-3で勝利。

まだ身体の線は細いけど、堂々としたプレーを披露しました

日本の宝を見た!これが、試合後に思ったことです。
鹿島の、ひいては、
日本の右サイドバックは10年は安泰だろうと思わずにはいられないレベルの高さでした。

 

 

2006年シーズンは小笠原選手のイタリアへの移籍もあり、
支柱を失ったクラブはリーグの優勝争いに加わることはありませんでした。
ただ、内田選手をはじめとした若手の台頭や
試行錯誤を繰り返した末のナビスコカップ決勝進出(決勝は惜敗)は
タイトルを近くに感じられた貴重な経験となったはず。

 

そして、いよいよ始まる第二黄金期。

 

つづく

 


【鹿島アントラーズ】内田のラストプレーから犬飼の劇的同点弾!

 

 

 

 

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